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緑の呼吸


私はお茶農家に生まれました。


 気付いた時、意識した時、私の前にはすでにそれがあった。
 生まれた時から、生まれる前から、それはずっと近くにあった。
 溺れそうだ。自覚した今、私はなんの変哲もないそれに溺れそうな感覚を覚える。

「きれいな、緑色だね」

 溺れる様に、たった一杯の小さな湯飲みの中で、私は呼吸を忘れそうになる。
 赤茶の細い口から垂れ落ちる液体が、とろみを持って白い器の中に跳ねて揺らぐ。
 雨粒が重力で落ちるように、私は最後の一滴を湯飲みの中の緑に落とす。
 小さな水面が撓んで、落ち着きを取り戻すのを待って、私はそれに手を伸ばした。
 人の手によって冷まされた温度は手に馴染んで、ゆっくりと緑が層を成していく。
 微かな透明度が生まれ始めたそれを、私は口へ流し込む。

 ああ、溺れる。

 口の中に広がった緑が舌を伝って私の味覚を刺激する。
 意識した事もなかった味に、神経を尖らせる意味を私は知った。
 それでも私の味覚はぼやけていて、あまり頼りにならない。
 なんて役立たず。
 私は諦めて湯飲みを置いた。
 口の中に広がった味。
 水道が音を立てて水を吐き出す。
 緑の中に水が落ちて、みるみる色が薄くなる。
 私は目を閉じて、絵の具を思い浮かべた。
 舌が当てにならないなら、その分は手と目で補わなければならない。
 色と、とろみと、温度と。
 絵の具を混ぜて目的の色を作るように、私はお茶を淹れるのだ。
 馬鹿みたいだと言われるだろう。そんな考えは駄目だとも言われるだろう。
 それでも私は、この、深い濁った緑の中で溺れるように毎日を過ごさねばならぬのだ。
 補うすべを持っているなら、それを生かさない手はない。
 来客を告げるベルが鳴った。
 私は顔を上げる。
 流れるように、湯飲みを取り出してお湯を注ぐ。

「いらっしゃいませ」

 私はお湯と、茶葉を、絵の具のように合わせる。
 白い湯飲みを満たす、緑を出すために。

 ただ、緑茶を淹れるのだ。

 いつでも隣にあったそれを、意識して淹れるために。


2012-05/22

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