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泣いた子


原案:すたすく


 彼女の手を離したのは私だった。
 あの日、彼女の手を振り払って切り捨てたのは、どうしようもない私だった。
 泣きそうな顔をしていたのを覚えている。もしかしたら泣いていたかもしれない。
 青い髪が風に揺れて、白い制服がはためいて、綺麗な指先は赤く腫れて。
 彼女が名前を呼んだ。
 私はそれに応える事無く、背を向けて歩き出した。
 何度も、何度も追いかけてくる声は、次第に遠くなって鳴き声に変わっていた。
 私は彼女を手放した。
 自分の身勝手のために、研究の為に、欲望の為に。
 もう名前を呼んでくれる優しい声はない。
 仕方ないねと笑いながらご飯を持ってきて進める彼女はいない。
 綺麗な髪だねと、丁寧にまとめてくれる櫛も、手もここにはない。
 この部屋は酷く乱雑で、広くて、あの学校の狭いけれど片付いていた部屋とは大違いだ。
 私の白衣はよれて皺が多い。
 着替えなんてどこに置いていたかもわからないし、興味もない。
 長いスカートだと言われたこのセーラー服も、もう着ている意味などないのに、なぜか今でも着ている。
 誰もいない部屋、私だけの空間。それは集中できる最高の環境のはずなのに、私はビーカーを落とし割った。
 広がった液体が急激に気化して目を襲う。
 涙が出た。生理現象だ。
 滲んだ視界が割れたガラスを捉える。
 椅子から下りようとすれば足を滑らせて床に尻もちをついた。
 付いた手がガラスを踏んで、刺すような痛みと共に赤を滲ませる。
 ぼさぼさになった髪が床に広がる。蹲ったのは、痛いからじゃない。
 こんな気持ちは初めてで、胸が締め付けられるような、熱いような、息苦しさを感じる。
 口から嗚咽が洩れた。
 最高の環境、邪魔のない部屋、私だけの王国。
 それがどうしてこんなにも苦しいと感じるのか、酷く気持ちが悪い。
 頭の中をちらつくのはいつだって青い髪の少女だ。
 鬱陶しいと感じていた、あの日々だ。
 それがなんだというのだろう。もはやここはあの頃の場所ではない。
 彼女が来る場所ではない。遠く離れた世界だ。
 扉を開けて、慌ただしく駆け寄ってくる彼女は絶対にいない。
 それなのに、それなのに。
「う……っあ、ああ……」
 胸が痛い。指が痛い。頭が痛い。
 誰でも良いから、彼女の代わりはきっと誰にも勤まらないだろうけれど、それでもいいから、誰かこの部屋のドアを開けて、何をしているだと叱り散らしてくれたらいいのに。
 がらりと、ドアを開けて。
 走っては駄目だと言っている部屋の中をばたばたと走って。
 光に背を向けて、私に影を作って。
「どうしたの? どこか怪我したの?」
 そう、言って。
「やっぱり私がいないと駄目だよ、蠍ちゃん」
 響いて来た声に顔を上げた。
 嘘だと思った。信じられなかった。
 彼女は、そこで、あの日々と変わらない笑顔で困ったように笑って、広げた手で私を抱きしめた。
「……ぁ、う……な、んで」
 温かい、柔らかい、優しい匂いに包まれる。
 青い髪が頬に触れる。
「もう、こんなに髪もぼさぼさにして……部屋だって汚いじゃない。ご飯もちゃんと食べてないんでしょう?」
 頭を撫でられて、一層ぎゅっと抱きしめられた。
 手の間から垂れた赤が、彼女の白い服を汚した。ああ、染みになる。
 彼女はきっとそんな事、気にしないだろう。
 私も普段ならそんな事、気にしないだろう。
「私ね、蠍ちゃんがいないと駄目なの。だから帰ろう? 蠍ちゃんがここにいる理由が機材や素材なら、私が用意してあげる。ここにいなきゃいけない理由があるなら、それを全部私が向こうで用意してあげる。だから帰ろう。ね?」
 彼女が体を離して、私の顔を両手で挟んだ。
 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔を見て、彼女は名前を呼んで微笑む。
「私は蠍ちゃんのお世話だけしてたいの」
「か、め……」
「蠍ちゃんが私の手に入るなら、なんだってする」
「……っう」
「泣かないで、もう大丈夫。私が一緒にいるよ。大丈夫」
 微笑んだ顔に、一層胸が苦しくなる。
 彼女がいい。彼女がいてほしい。彼女といたい。
「かめ……かめ……」
 白い手に自分の手を重ねた。赤が付いてしまったけれど、そんな事はどうでもよかった。
 彼女の髪が揺れる。
 私の視界は閉じて行く。
 唇が柔らかく温かい彼女に塞がれた。
「おかえり、蠍ちゃん」
 抱きしめられた温もりに、私はただ安心してみっともなく泣いていた。



(私たちはきっと何かを間違えている)
(それでもいいと思えたの)


2012-07/08

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