とある部室にて
閉鎖的新聞部
静まり返った部室。
あの人はもういない。
低体温な先輩。
唯一になった、不思議な人。
「岩科先輩……」
窓際の近くにある彼の使っていた机が、酷く褪せて見えた。
思い出せば、いつもあそこに座って、黙々と作業をしている人だった。
パソコンも、プリンターも何も変わっていない。
書類だって、綺麗に整頓されたまま、何も日常と変わらずに彼を迎えようとしているのに。
そこに座るべき人はこれから先、そこに腰を下ろすこともない。
カーテンが揺れる。
木漏れ日を浴びる彼の姿を、一瞬だけ垣間見た気がした。
何事にも淡泊で、それでもたまに密やかに微笑む事があって、それにどうしようもないくらい惹き付けられた。
それが芥自身に向けられた時などは、赤面してもいいくらいに美しかった。
飼いならされていくようで、心地よかったのだ。
彼の座っていた場所に、今芥はいる。
首から下げて、ベストの下にひっそりと隠している名札には、名前と共に新聞部部長とプリントされている。
一年でこんなにもあっさりと変化はすんでしまうのかと、一人溜息を溢さずにはいられない。
彼もこんな気持ちで此処にいたのだろうか?
一人きりの部室。新入生に対しての宣伝は行わない。ひっそりと、彼が愛したように芥自身もこの部の在り方を漠然と理解しているのだ。
此処は閉ざされているべき場所。外部の情報を入れても、それは情報だけが欲しいのであり、人そのものは受け付けていない。
今にして思う。去年のこの時期、芥が入部届けを持って此処に来た時の、彼の反応は。
「今更だよね……」
当然の反応。当時の自分は何故だか分らなかったが、今ならわかる気がしてふっと小さく笑った。
あの時、彼が芥を受け入れてくれたことが、今になって大きな意味だったのだと片隅で理解している。
変わり映えを求めなかった彼が、閉鎖的新聞部に突然ひょっこりやってきたものを受け入れたのだから。
「……さて、活動しなきゃ」
懐かしさと寂しさに頭を振って、芥は机に置かれたボードを手に取る。
こなさなければならないことを、優先順位を決めて取り組む。
そのやり方や、基準もすべて旭から教わったこと。
芥は椅子に腰を下ろすと、ノートパソコンを立ち上げる。
低く小さい聞きなれた動作音を耳にしながら、机上に整えられたファイルの中の一つを取り出し、目的を探すように開く。
新聞のスクラップから、手書きのメモ、書類にCD-ROMまで内容は様々だ。
そんな中身をぱらぱらと捲っていき、目的のものを見つけ一つの書類を取り出す。
右上をクリップでまとめられた数枚に目を通しながら、先に立ち上げたパソコンの文章ソフトを呼び出した。
そして、書類に目を通しながら、軽快なリズムで芥の指がキーの上で踊り始める。
カタカタと崩れないリズム。
表情一つ変えることなく、芥はキーを打ち続ける。
そうして、十分ほど打ち続けた後、ふと手を止めた。
同時にプリンターが唸るようにデータを取り込む音を立て始めた。
書類をファイルにしまうと、ボードに終了の印をつける。
いつもと、変わらない状況。
いつもと、変わらない日常。
いつかは、慣れてしまう感情。
芥は携帯をポケットから取り出すと、なんとなく電話帳を開き焦がれる名前を探し出す。
ページを開いて……。開いて、終了する。
胸の中をぐるぐる回る靄は、晴れない。
そんな時だ。
「あの、新聞部ってここであってますか?」
教室のドアが申し訳ないとでもいうような音を立てて、開かれた。
制服を着ているというよりも、制服に着られているといえるような、新入生が一人おずおずと入ってきた。
なんだか嫌な予感がして、ガタリと立ち上がる。
「僕、入部希望なんですけれど……。あの、部活紹介とか勧誘してないみたいなんですけど、入れますか?」
ほら、やっぱりだ。芥は冷たい水に打たれたような気分になった。
自分は彼ほど優しくはないし、変わり映えも求めたくない。
黙っていると、困ったように真新しい制服に身を包んだ男子生徒は口を動かした。
「椚先生が、部長の許可さえおりれば入れると言っていたのですが」
入部届けの書類を持った生徒はゆっくりと芥のいる机のもとに歩み寄ってくる。
そして、入部届けを差し出して、緊張気味に入部したいと訴えてくる彼に、芥は唇を震わせた。
肺が酸素を取り込み、二酸化炭素と共に空気が声帯を震わせて、残酷に笑う。
「ごめんね、今部員はいらないんだ。悪いけど、入部は全部断ってるんだよね」
「え、でも……」
「此処はそういう部活なんだよ。まあ部活としても特に部活らしいこともしてないし」
嗚呼、なんて自分は心が狭いんだろう。
一年生に対して、こんな風に突き放すなんて。
「先生は、今部員が先輩しかいないから、入ったらうれしいみたいな事言ってましたよ?」
なかなか食い下がらない後輩に、芥は内心で盛大な舌打ちをする。
表に出す顔は、笑顔をたたえたまま。
嫌な先輩だと思われるだろうか。
それでも、変化を求めるべき時期は今じゃない。
もしこれが来年だったなら、彼の入部も考えたかもしれないが。
「確かに、今は俺一人だけど困ってないし、十分手は足りてる。それに部活なんて名ばかりでほとんどが雑用とか手伝いだからね」
この空間に変化はいらないんだと、遠まわしに拒絶を繰り返す。
それでもどこか不満を残した顔で、立ち尽くす後輩にどうしたものかと考えていると、本日二人目の訪問者を告げるドアが開いた。
また入部希望者かと、緩慢に入口に顔を向けて、芥は目を見開いて固まった。
彼の視線の先で、訪問者はゆっくりとドアを閉めて顔を上げて、そして。
「こんにちは、アケボノアクタ君」
あの時のように笑った顔で、前部長の岩科旭は、言った。
「俺、明日から此処でバイトすることになりましたから」
「え……は? 旭先輩、バイトって」
「そういうわけで、新入生かな? 俺は去年ここの部長をしてた岩科旭です」
芥に軽く笑みを返し、茫然と二人を交互に見ていた後輩に、旭は言葉を投げかけた。
突然振られ、一瞬びくりとしたあと後輩はしどろもどろに言葉を返す。
「あっ、はい! 今年入学しました、鈴木正弘です」
「鈴木君だね。なんで此処に入部しようと思ったの?」
人当たりのよさそうな、平凡を表した笑みを浮かべたまま、旭はそう尋ねる。
「えと、僕、文章を書くことが好きなんです。でもちょっと人が沢山だとか煩いのが苦手で、それで先生に話して、教えてもらって此処に入りたいなって」
もしかしたら入部できるかもしれないという可能性が大きくなったように、鈴木が微かに緊張を解いて嬉々として旭に話しかけているのを見て、芥は背に嫌な汗が流れるのを感じた。
(なんて幸運と不幸!)
2014-02/05